先日、四国の松山(愛媛県)へ、次回の展示会場の下見へ行って来ました。
のどかな風景とゆったりと闊歩する猫たちの様子を眺めながら、しばし日頃の喧騒から離れ、とても良い時間を過ごしました。こんなふうに温かで優しい世界があることの幸せを、ゆっくり噛み締めました。
現在、イスラエルによって行われているパレスチナの人々に対する「虐殺」に、わたしは最大限の表現をもって抗議します。先日、東京・新宿では大規模なデモが行われ、わたしも参加しました。
松山で見たあの風景とは真逆の、本当に厳しい状況に置かれた人たちの存在は、日々わたしの心を打ち砕きます。新宿の片隅に立っているだけで何が出来るのかと笑う人もいるでしょう。でも、わたしは立って何も出来ないことと、笑って何もしないことだったら、間違いなく前者を取ります。
静かに悲しんだり、怒りを押し殺したりすることが美徳であるという風潮があって、それはたしかにときにとても美しく崇高なもので、本当に大きな悲しみの前に佇む人たちの姿は胸を打ちます。けれど、間違っていると思うことに対して我慢を続け、耐えることとは違うのです。
これはデモに参加していて感じたことでもありますが、冷静さを保つことの美しさは、履き違えれば「冷笑」をも美徳としてしまう危うさを持っていることもあるのではないでしょうか。
「違う」という感覚はとても大事で、「違う」と感じたことには「NO」を突きつけられること、突きつけることが出来る社会であることの重要性を、最近とくに強く感じます。
しかし、それはとても勇気が必要で、多勢に向き合うこと、孤立しかねないこと、反撃に遭うことは、本当に怖いです。生活や環境のなかで、あるいは様々な理由からそれを出来ない人たちもたくさんいて、その人たちに寄り添うことも忘れたくありません。
わたしはそれを出来る側として、声を出せない人たちの分まで立っていたいと思います。
わたしの声は小さいです。実際に本当に小さいです。それでも、どんなに小さくても「違う」と叫び、抗いたいのです。
(sayo)