まだ会社員だったころ、年数回の長期休暇(といっても長くて1週間程度の休日)はバンコク経由でインドシナのまだ観光客が押し寄せていない辺境や田舎町で過ごすことに夢中になっていた時期があった。閑散とした川べりや海岸で夕日を眺めつつ飲むビールはどれも安くて美味しかった。高湿のねっとりした熱帯の空気を吸い、雨期に降り続く長雨の中に身を置くことは殺風景なオフィスビルでの単調な仕事や日本という国の閉塞感を一時でも忘れ、正気を保つために必要だったのかも知れない。そして、旅先で出会う人達との距離感(現地人と込み入った話をするだけの語学力を持たない、いずれ通り過ぎて行ってしまう外国人という存在であること)には肩の力が抜けるような心地よさを感じた。それは、異国のタクシーのステレオから流れる曲を聴いて歌詞は分からなくても音やメロディを楽しめる感覚に似ていた。
インドシナは大国の代理戦争、内戦や独裁政治によってとてつもなく大きな傷を負っていたにも関わらず、出会った人達の多くは穏やかで優しかった。カンボジアのシアヌークビルで顔見知りになったバイクタクシー運転手のロムさんは、再会の度に笑顔で家に招いてくれた(そしていつも息子にアンコールビールを買いに走らせた)。大晦日に町に到着してホテルの部屋がなかなか見つからなかったときは家に泊まってもいいよとまで言ってくれた。円とかドルとか持った野良犬みたいな存在の外国人によくそれだけ優しくできるな、と後々思い出しては考えた。宗教(上座部仏教)が拠り所になっていて、他人に優しくすることで自分の徳を積むことができるのが理由なのかも知れない。ただ、それだけではない気もする。
首都プノンペンに高層ビルがいくつも建設され始め、郊外にイオンモールもオープンしたというニュースを聞いたころからカンボジアに対する興味が薄れてしまった。「どこに行っても同じになるな」と独りごちた。でも、国が発展して国民の生活が豊かになるのは良いことだ。暗い過去の傷が癒えて、きらきらした笑顔が溢れることを私は願っている。
(Paul)