ビバ記念写真

先月、自宅の引越しをしました。14年ぶりの引越しはそれはそれは大変で、当日前後の数日間はこんなに片時も止まらずに体を動かし続けたのは何年ぶりかと思うくらい、とにかくずっと動いていました。どうにか間に合った(と思う)ので笑い話にできそうですが、正直、もう二度と引越ししたくない……(苦笑)。

今回書きたいと思ったのは、そんな大変だった引越しのことではなく、旧宅を片付けるなかで思いがけずたくさんのネガフィルムの写真が出てきたことです。昭和生まれのわたしにとって、スマホが当たり前になる以前はフィルムカメラが普通でした。出かけるときにはよくカメラをぶら下げて行き、出先で色々なものを撮りました。
そんな大切な思い出の数々はもちろんすべて持って引越ししかったけれど、全部残すには枚数が多すぎたので選別することにしました。急いで取りかからなければならなかったので基準などはあまり設けず、第一感でサクサクと進めました。要る、要らない、と手を進めるうち、手の止まる写真のほとんどには人が写っていることに気が付きました。

わたしは外出先などで撮るのはほとんど草花や風景、目に留まったものなどで、相方などと一緒に出かけても記念写真などは気恥ずかしさもあって全く撮らないほうでした。人物を撮るようになったのは子どもが生まれてからかもしれません。
ある時、知人に「人物の写真はなるべく撮っておいたほうが良い」と言われたことがありました。その時はあまりピンと来ていなかったような気がしますが、今回引越しのために写真を選別していてそのことを思い出しました。出先で撮ったものの写真より、人物の写った写真のほうが、当時の記憶や感情や匂いなどを強く思い出している気がしました。
結果、いつどこで撮ったのかもはや思い出せない風景やものの写真より、当時仲の良かった友人やクラスメイト、今はいない家族、若かった家族、それらを含めた自分、などの人の写った写真が多く残りました。実家から受け継いだ、自分や姉の小さかった頃の写真、父母、あまり覚えていない祖父、祖母、若い頃の叔父、叔母などの写真も見つけて残しました。それから、やはり歴代の猫たちの写真も。

結局、少なからず手放すことにはなってしまったけれど、草花や風景や好きなものを撮ることが無駄だと言うわけではありません。きれいなものや好みのかたちを見つけたり、風景に感動したりして撮った写真は、もちろん素晴らしいです。でも、わたしが気恥ずかしさに負けてあまり撮って来なかった自分や人との記念写真は、わたしが思っていたよりずっと大事なものだったのだと思いました。
多分、持ち歩いていたネガフィルムのうちの数枚でも人物を写していたら、後々写真を見たときに、そのとき一緒に写した風景やものたちのことも併せてもっと思い出せたのではないか、とも思います。

年齢を重ねて写った自分に辟易とすることが多くなってはきたのが辛いところではあるけれど、今はスマホでいくらでも撮れるし、なにかの折には自分の写真も誰かと一緒の写真も、もっと積極的に撮ろう! 記念の写真を撮ろう!
ビバ! 記念写真!

(sayo)