共感とはお互いに安心を与えることもありながら、
長めの句読点を打つように感じることもある。
この世の中で反響があるものは、多くの人の中で何かを共感させているのだろう。
わかるわかると、そこにいるような体験。
それが人間の中の最高の「価値」というものなのかもしれない。
たまに、同じ不器用な人が活躍しているのだからあなたもご覧なさい。
と言わんばかりの記事や知人のお心配り。
どうして、人は一人ひとり違うと主張する社会に
わざわざ「ほら」と共感が必要なのだろうか。
共感したところで、本当の理解なのだろうか。
でも必要なのだ「わかります」の握手が、
ただ「わかってください」じゃ足りない。
相手に響くものがないと
わたしのようなフーテンには、
響かせることしか、できない。
一見大層なことのようだが、ただ自分に押し寄せた誰かの感覚を借りている。
わたしは共感という義手をつけて、
誰かに「これいいね」と握手を求める
相手も「そうだね」という義手をつけて、手を差し伸べる。
そうして安心して、今宵も布団のページに
誰から受け取った絵の具で、夢を描く。
(Tomoyo)