見るということ

最近、眼鏡をこしらえた。
わたしは元々視力が良く、昔は検査で2.0を誇っていたほどだ。しかし、寄る年波には勝てず、遠くも手元も見辛くなってきてしまい、ついに人生初の眼鏡をこしらえた。

もちろん、見えないよりは見えたほうが良いことが多いのかもしれない。眼鏡やコンタクトレンズを装着する煩わしさに悩まされることもなく、くっきりとした視界を当然のこととして過ごしてこられたことは、とても有り難かったと思っている。

しかし、見える、見えないというのは、どういうことなのだろう。
盲目の人は、別の感覚器官が発達するという話がある。明るい場所で片目を1分ほど手で塞ぎ、暗くして手を離すと、塞いでいた目は開いていた目より暗闇をはっきり捉えることができるという遊びは、息子から教わった。
見えるというのはとても不確かで、わたしがくっきり見えていると思っていた世界も、案外ほんの少しの狭い世界だったのかもしれない。

例えば、読書をする、絵を描く、ピアノを弾く、数学を学ぶ、何かの研究をする、新しい趣味を始めるなど、知識や技術を持つことによって、見える世界や角度が変わったり、拡がることもあるだろう。わたしは長年絵を描いてきた。目の前のモチーフを見て、そのもの自体のかたちや感触、差し込む光と落ちる影、そしてそのものに対する感情、それらを紙に写すという行為は、わたしの世界を拡げ、深めてくれたと思う。そのモチーフを深く「知る」ことで、さらに見えるものが増える。「見る」ことは「知る」ということで、「知る」ことで「見える」ようになるものがあるのだ。

視力が落ちて眼鏡が必要になり、その視界にはまだ慣れないが、そんなきっかけから「見る」ということに少し思いを巡らせてみた。

(sayo)