はじめまして、「”matatabist” マタタビスト」が始まりました。
ここでは、猫とアート、心、文学、映像などについて、隔週でメンバーを交代しながら
猫のようにマタタビに集まり、満ちる活動をしていく、そんな気まぐれなコンテンツです。
今回は、matatabistの言い出しっぺ。Tomoyoです。
🦪言葉🦪
「言葉って、記録に役立つだけなのではないか」
そう思ったのはつい最近、山田夏子さんの「グラフィックファシリテーションの教科書」を読んだ後のことで、本文を引用すると”ファシリテーターが結論を急ぎ、焦って収束すると、参加者は「コントロールされている感覚」に—(以下略)” という記載がある。わたしの解釈だと早々に対話の結論を出すと参加者はその言葉に囚われ、奥底にある気持ちを言葉にすることを諦めてしまうことになる、ということなのではと思う。
わたしはよく何か目標を立てたり、自分の考え、感動したことを日記に書いたり、SNSに投稿したりすることがある。
言葉とはあくまで成果物で、決して心と100%一致するものではなく、心をどうにか伝えるツールの一つであるとわたしは思っている。
心と言葉はそもそも別物だから言葉を選ぶことに悩むことができるのではないだろうか。
湧き上がる思いを言葉にすることは、自分の心を言葉という型に流し込む作業なのではないか。
それって、どういうことなんだろう。
精神科病棟で入院中に拘束されてる方をみると、その人はたまたまこの社会に嵌まらないだけなんじゃないか。
ほんとうは型にハマらずに生きる方法があるのではないかと、当時を思い出す。
心も、人も、言葉に嵌める、社会に嵌める。
そもそも言葉という型に嵌めた状態は、自分自身を「そういうもの」だと洗脳することなのでは。また、一区切りになり、そこでやった気になって停止してしまうのでは。と、言語化に対する意味をハテナで囲ってしまう。
その一方で、読んだ後もいつまでも考えてしまう哲学書のように文字でどこまでも心揺さぶられることもある。
まとめることはその出来事の終わりに近づき、遠のいていく。
わたしは言葉も社会も諦めたくない。
matatabist では、まとめきれない「心」を紡いでいき、可能性を止めない活動をしていきたい。
“Your oyster”(あなた次第) は、matatabistの共通意識の一つである。
(Tomoyo)